気だるく熱を落とす西日を、流れてきた雲がさえぎった。外気の湿度に対する加熱が少し緩
んで、うだる暑さに音を上げていた美墨なぎさに、ようやく愚痴をこぼすだけの元気が戻った。
「はぁ〜〜、マジ暑過ぎ。どうせなら、たこ焼きのついでにソフトクリームも食べとくんだった…
…」
「もう…、なぎさったら食べることばっかり……」
溜息をつきながら、なぎさと並んで歩く雪城ほのかがハンカチを出して、親友の額の汗を拭き
取る。すでに何度も親友の汗を拭いたハンカチは、ぐっしょりと湿ってしまっている。ほのかは、 今度からはタオルを用意しておこうと思った。
学校の帰り道、二人とも制服のままで、川沿いに少し寄り道をしている。
太陽の光に馴染む狐色のショートカットの下で、なぎさの表情がわずかに翳った。
「ねえ、ほのか……」
「うん?」
なぎさとは対照的に、黒い艶やかな髪を背に揺らし、清楚な顔立ちを親友の方へと向ける。
「アタシ…………太ったりなんかしてないよね?」
毎日あれだけバクバクと食べておいて何だが、やはり年頃の少女にとって、ウエストのサイズ
というのは重要なポイントらしい。普段は男子並みに振舞っているなぎさが、急に可愛らしい面 を覗かせたのを見て、ほのかはクスクスッ…と抑えた笑みをこぼした。
「えっ、なんで笑うのっ? それって、やっぱり太ってるって事?」
「ううんっ。そうじゃなくて……」
なぎさのことがすごく可愛く思えて、それで笑ってしまったとは説明しづらい。とりあえず、なぎ
さの不安を一蹴しておく。
「大丈夫。全然太ったりなんかしてないわよ。……まぁ、部活のせいで脚はちょっと太くなってる
みたいだけど」
「ええっ、ウソ!?」
思わずスカートの裾を軽く持ち上げて、自分の両脚をマジマジと見てしまうなぎさ。ショックを
受けているらしい親友の隣で、ほのかが小声で一人ごちた。
「私は素敵だと思うんだけどなぁ、なぎさの鍛えられた両脚って。機能美と運動性能に溢れてい
て、すごく理想的。私の脚と取り替えて欲しいぐらい……」
自分が褒められているのを耳ざとく聞きつけたなぎさが、軽口を挟んできた。
「でも、ちょっと臭っちゃうよ」
「なぎさの足の臭いって、…………うんっ、ちょっと興味あるかも!」
何を想像したのか、ほのかの目が知的な輝きを帯びてきた。
昔、日記に書いたバカな内容を、ほのかに読まれてしまったことがある。特に、駄洒落めかし
た靴下の臭いの記述が記憶に残り、なぎさの大切な特徴として覚えられてしまっているらしい。 好奇心の旺盛なほのかが「お願い、ちょっとだけでいいから嗅がせて」などと言ってくる前に、 なぎさは慌てて話題を逸らした。
「ね…ねぇ、ほのかの今日の晩御飯のおかずって、何なの?」
「……まさか、食べにくるつもり?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
とっさに出た話題が食べ物に関することなのは、なぎさなので仕方がない。言葉に詰まったな
ぎさは、きょときょとと救いを求めるように視線をめぐらせる。特に何かを思いついたわけでは ないが、とりあえずといったカンジで、「ねっ、休憩していこ」とほのかの手を引っ張って、川岸 の土手に向かって歩き出した。
「ええーっ?」
唐突のエスコートに声を上げながらも、ほのかは抗うことなくついて行く。
土手に生えた草を上をササッと手で払って、なぎさが座り込んだ。その横に、同じように座り
込んだほのかだが、すぐに腰を上げて、よりなぎさの側へと座り直した。
都会の川なので、たまに心無い通行人が捨てたゴミなどが浮かんでいたりなどもするが、こ
の街で育った二人には、その光景も慣れ親しんだものだ。
ゆっくりと流れる川の前で、二人を包む時間が穏やかに過ぎていく。その穏やかさを壊さない
よう、ほのかがそっと口を開いた。
「なぎさは……」
親友の目がコチラに向いたのを見て、続きを口にした。
「……赤ちゃん……産みたい?」
一瞬、シン…と静まった間をおいて、なぎさが「エエッッ!?」と大きな声を上げ、ガバッと身を
引いて驚いた。予想範囲内だったのか、なぎさの驚きに動じることもなく、ほのかは話を続け る。
「ほら……先週、一緒にお風呂入ったでしょ?」
驚いた姿勢で固まったまま、なぎさは先週のことを思い出した。突然、まさにバケツをひっくり
返したような雨に見舞われた二人は、大慌てでほのかの家へと逃げ込んだ。たった数分で水 滴が滴るほどびしょぬれになった服は、ほのかが家の奥から引っ張り出してきた布団乾燥機 で乾かすことにして、二人は濡れた体をさっぱりさせるべく、一緒にお風呂に入ったのだが… …。
「べ、別に赤ちゃん出来ちゃうようなことなんてしてないよ? ……ちょっとほのかの胸にさわら
せてもらったりとかはしたけど、だ…だからってアタシがにっ…にっ…にんし……」
なぎさが目を白黒させているのを見て、ほのかが慌てて否定した。
「ち…違うから! なぎさ…とにかく落ち着いて! 私の胸に触れたぐらいで赤ちゃん出来るワ
ケないでしょ!?」
ここまでなぎさが取り乱すとは思っていなかったらしく、何とか彼女を落ち着かせてから、「そ
うじゃなくて……」とほのかが話を仕切りなおした。
「だからね、一緒にお風呂入った時に、なぎさの胸見たんだけど……去年より少しだけ大きくな
ってるよね」
一瞬、シン…と静まった間をおいて、再び、なぎさが「エエッッ!?」と大きな声を上げ、ガバッ
と身を引いて驚いた。このままだと本当に話が進まないような気がするので、ほのかは少し早 口で自分の思ってることをしゃべりだした。
「そのとき思ったの。なぎさもちゃんと成長してるんだなぁ…って。なぎさもいつか大人になって、
素敵な人と結婚して、お母さんになっちゃうんだなぁって」
ようやく話が繋がった。
「ああ……そういう意味ね」
安堵の溜息をついたなぎさが、ふと想像(妄想?)にふける。脳内でラヴロマンスを繰り広げ
ながら、ニヤニヤとだらしなく顔を緩ませた。
そんな彼女の様子をすぐ横から覗き込みながら、ほのかは自身のことのように嬉しげに目を
細め、そして、自分でも気付かないほど、少し悲しげに視線を落とした。
短時間の間に、脳内で三人目の赤ちゃんを誕生させたなぎさが、笑顔で幸せを振りまきなが
ら訊ねてきた。
「ねぇねぇ、ほのかは誰か結婚したい人とかっているの?」
「そんな人…いない」
あまりにもそっけなさ過ぎて、自分でもハッ…となったほどの答え。慌ててなぎさに謝る。
「ごめんなさいっ。私、ただ、なぎさが幸せになってくれたら、自分も幸せだなぁって思って……
それで訊いてみただけなの。私の方はそんなの全然考えたことなくて……」
引き寄せた両膝に目線を落としながら、ほのかが寂しい声音で呟く。
「私は、ほら…、もっと研究したいことや打ち込んでみたいこととかもいっぱいあるし、自分が恋
愛している時間なんてなさそうだし……」
それ以上の言葉は無駄だと思って、続けるのをやめた。自分の気持ちは騙せても、なぎさが
騙されてくれないのであれば仕方がない。
「私、なぎさと一緒にいる時が一番幸せで……それ以外の幸せなんて想像もしたことなかった
……」
無言のまま、二人はただ川を見つめて寄り添った。言葉はなかったが、心は常に通じてい
る。自然に手と手がふれて、互いに優しく握り締めあう。
「もし……」
なぎさの言葉が、空(くう)に投げ出された。
「もし、アタシが結婚しちゃっても、今みたいにほのかと一緒にいられる? ほのかと二人で買
い物に行って、なんか美味しいものをいっぱい食べて…………。今と変わらない時間を二人で 過ごせる?」
ほのかからの答えはなかったが、なぎさは「そっか」と納得した。汗ばむ暑さも忘れるほどに、
なぎさの中で何かが吹っ切れたような気がした。
握り合った手の体温が上昇するのを感じながら、なぎさはほのかに告白した。
「このまま二人でいつまでも……、ほのかと一緒にいる今がずっと続けばいいのにね」
恋愛も友情も超えた、『一緒にいたい』という、ただそれだけの強い想い。ひたすらに、そのひ
とつだけを願う気持ちが、なぎさの心を占めていた。
なぎさの手が、ギュッと力いっぱい……指が食い込んでくるほど強く握られた。手の痛さに比
例して、ほのかの気持ちがなぎさへと伝わってくる。
(なぎさ……私……)
ほのかもまた、胸を揺らす切ない想いを言葉にして、なぎさに告白した。
「私も……。恋愛なんていらないから……なぎさと一緒にいられるだけでいい。誰よりも……な
ぎさと一緒にいたい」
恋の告白よりもずっと切ないが、胸をときめかせることもない……ただ、言葉通りなだけの言
葉。二人が言葉にして吐き出した『一緒にいたい』という想いは、そのまま入れ替わるようにお 互いの心へと沁み込んでいく。
二人はただ川を見続けた。身動きすることもなく、本当に時間が止まってしまったように。
静かに結晶していく二人だけの時間を、なぎさが小さく乱した。なぎさの顔が動いて、ほのか
の顔に寄せられていく。ほのかは川に向けたままの視線をそっと閉じた。
ほのかの頬に柔らかい感触が生じた。途端に全身の体温が跳ね上がる。なぎさの優しい口
づけを受けて、頬が溶けそうなほど熱くなって、そんなあまりの幸せに目蓋の下に涙が溢れてく る。
やがて離れていったその感触を追うように、ほのかは少し泣きながら、震える唇をなぎさの顔
へと寄せる。目を瞑ったなぎさの頬に、想いを込めて口付けをした。さっきとは違い、ほのかの 唇は、なぎさの頬から離れていこうとしなかった。今しているキスが二人の終着点……。ほの かの心がそう結論付けた。
そんなほのかを裏切るように、なぎさの顔が動いた。永遠に続くはずの唇と頬の結びつきを
解かれ、しかし、ほのかの心に怒りは湧かない。
「ほのか……」
なぎさが囁くように訊ねてくるのを、ほのかが首を横に振って止めた。あとに続くはずだった
「いい?」という言葉は呑み込まれて、そのままなぎさの中に消えた。親友であると同時に、女 の子同士だからということもあり、あえて頬へのキスにとどめておいた理由も一緒に消える。
向き合った二人の顔は、躊躇なく重なった。唇同士を押し付け合い、その瑞々しい柔らかさを
奪い合うように、一心にお互いの唇をむさぼった。
(ほのかっ)
(なぎさ……ッ)
握り合わさっていた手は、いつのまにか、それぞれの背中へと絡みついていた。二人はこの
場所が屋外であることも忘れ、より深く体を密着させながら、力の限り抱き締めあった。
激しく、息継ぐ暇も惜しんで、なぎさとほのかは唇を求め合った。狂おしいほどに昂ぶる心
が、もっと交わりたいと喘ぐ。ファーストキスとは思えぬ強引さで、お互いの口から音を立てて唾 液を吸い出し、舌までも吸い出す。
「ん゛ぅっ…」
「んん゛ッ…」
くぐもった呻き声をキスで押し潰しながら、二人は夢中で舌を絡め合った。口内に流れ込んで
きた唾液が口の端から溢れて、二人のあごを糸のように伝い落ちていく。
口の中に溜まってきたなぎさの唾液が、ほのかの喉を塞ごうとしていた。呼吸に支障をきたし
始めたそれを嚥下しようとして、ほのかは間違って気道の方に飲み込んでしまった。異物を感 知した気道が激しく蠕動し、苦しげにむせる反動で、二人の意に反してキスが解かれてしまう。
「……けほっ、けほっ!」
自分の唾液を撒き散らしながら咳き込む親友をいたわることもせず、なぎさは二人を隔てる
邪魔な衣服を脱がそうと……否、引き裂こうとしていた。ほのかのブラウスに手をかけ、力任 せに引っ張った。ボタンが弾け飛んで、ほのかの白い素肌が覗いた。
「ひッ!」
純粋な恐れから、ほのかが小さく悲鳴を上げて、ばっと片手で体をかばう。苛立ち気味にそ
の手も乱暴に押しのけようとして……そこでようやく、なぎさの目に理性が戻った。
目の前で荒く息をつきながら、自分のやってしまった行為に愕然と放心しているなぎさを見
て、そんな彼女へ、ほのかは聖母のような赦しの笑みをこぼした。
はだけられたブラウスを引き合わせて肌を隠しながら、なぎさへと寄り添った。全身をガクガ
クと震わそうとする怯えを何とか抑えつつ、そのことをなぎさに気付かれぬよう、ほのかが明る い口調で繕った。
「ごめんなさい。なぎさとなら…その、してもいいんだけど……ほら、ここって外だし……」
「あっ…!」
ほのかに言われて、ようやくそのことを思い出したなぎさが、慌てて周りを見渡しながら、熟れ
たリンゴのように顔を真っ赤にした。
随分と傾いて、街の地平に消えようとしている夕日を追うように、二人は手をつないで歩いて
いた。ブラウスがはだけないよう片手で押さえるほのかを見て、なぎさが心底申し訳なさそうな 表情で謝った。
「……本当にごめんね」
なぎさの何度目かの謝罪に、ほのかは静かに首を横に振った。本懐を遂げ損ねたほのかを
責めるように胸の奥で鼓動が騒いで、今頃になって、先程の行為の続きをせがんでいた。
なぎさが足をとめて、少し深呼吸した。ほのかと向かい合って、偽りのない決意を口にする。
「あのさ……、もし二人が大人になった時に、もう一度さっきみたいなことになっちゃったら……
その時はアタシ達、本当の恋人同士になって……ずっと一緒に暮らそうね」
なぎさの言葉に、胸いっぱいの嬉びを咲かせながらも、ほのかは心外といった表情をワザと
作ってみせた。
「あれ〜? 私、てっきり今日の事の責任とって、これからは結婚前提で付き合ってくれるもの
だとばかり思ってたんだけど?」
「いや…、今日はその…何てゆーか、その…つい…感情が先走っちゃったてゆーか……」
決意を口にした時の凛とした表情と打って変わって、しどろもどろにあたふたとする彼女に、
ほのかはころころと可愛らしい笑みを浮かべて追い打ちをかけた。
「大人になったら絶対に今日の続きしようね、私のな・ぎ・さ。……あ、でも、さっきみたいに乱
暴にしちゃダメよ」
なぎさが何も言い返せないうちに、ほのかがそそくさと手を引いて歩き出した。
「わっ、ちょっと待ってよ」
なぎさが小走りでほのかに追いつき、また二人は並んで歩き始めた。ほのかがクスクスと笑
いながら、親友へと寄り添う。歩きづらいにもかかわらず、くっついて進む二人の足元から、長 い影法師が伸びている。それは、再び日が昇る方向を指しながら、たったひとつの姿に溶け合 わさっていた。
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