なぎさの目の前には、天使がいた。頭の上に光輪は無く、背を飾る白い翼も無いが、そんな
ものは不要と言わんばかりに彼女は輝いていた。
(いいなぁ、ほのかってば。すっごく綺麗で……)
「……もぅ、なぎさ、ちゃんと集中して」
気もそぞろななぎさを、ほのかが小声でたしなめる。
学園祭でのクラス劇「ロミオとジュリエット」のリハーサル。明日の本番を前に練習もいよいよ
大詰めを迎えていた。
衣装だけは凛々しくも、台詞回しがたどたどしいロミオ役のなぎさに、演出担当の志穂が容
赦なくダメ出しを飛ばしてくる。
可哀相なほどげんなりとしたなぎさを、ジュリエット役のほのかが笑顔で「がんばって、なぎさ」
と元気付けた。夏子と京子の自信作である衣装を着込んだほのかは、本物のお姫様のよう で、向かい合ったなぎさは少しドキドキしてしまう。
(あ、ほのか…口紅塗ってるんだ……)
今更ながらに気付いて、ぼーっと見蕩れてしまった。そこへ、また志穂のダメ出しが飛ぶ。
なぎさの仕上がり具合に、クラスの全員が気を揉みながらも、リハーサルはどんどん進行し
て、ラストのキスシーンまでたどり着いた。目を閉じた二人が、お互いの吐く息を頼りに顔の距 離を縮め、わずかな間隔を空けて、ピタリと停止する。
(キスか……)
内心で淡い溜息をつく。なぎさにとって、キスは純愛の象徴である。恋を夢見る年頃である彼
女にも、やっぱり唇を捧げたいと思っている人がいた。
(アタシもいつか、ほのかみたいに綺麗になって、藤P先輩と教会で……)
甘い妄想に、なぎさの脳が蕩けていく。憧れの人の前で純白の衣装に身を包み、大勢の祝
福に見守られながら、永遠の愛を誓い合う儀式。
(藤P先輩……)
胸が切なくて、張り裂けそうになる。そんななぎさを優しく見つめていた藤Pの目蓋がそっと閉
じられ、なぎさもウットリとしながら目を瞑る。
近づいていく二人の顔。お互いの呼吸が、一足先に交じり合う。そして、柔らかく触れ合う唇
と唇。
愛おしい気持ちが溶け合い、二人の心を温かな絆で深く結びつけた。
キスの余韻に浸りながら、なぎさはゆっくりと顔を離していった。そして、夢見心地のまま、な
ぎさは、何だか奇妙な表情で固まっているほのかの表情を見て…………
「ええええええええええええええええっ!!!?」
なぎさの驚きの声は、校舎全体に響き渡った。
…………。
「ま、まさか、ホントにキスしちゃうなんてね、ハハハ・・・・・・」
「事故だもの、仕方ないわよ」
帰り道、気まずいままの雰囲気で、一緒に並んで歩く。無理に笑顔を作ったなぎさに、ほのか
はそっけなく返した。
チラリチラリと何度も横目でほのかの表情を盗み見るが、彼女が今、一体何を思っているの
かは窺い知れなかった。
「ほのか、あの…」
「…ねぇ、なぎさ」
謝罪を言葉を続けようとしたなぎさを、ほのかが緩やかに制した。いつものほのかとは違う声
のトーンに、ビクッとなぎさが緊張する。
「な、なに?」
「…………」
しかし、ほのかは言葉を途切れさせたまま、無言で歩き続けた。ほのかが何を言おうとした
のか気になって、なぎさは居心地の悪さにいたたまれなくなる。
そして、唐突に続きの言葉が紡がれた。
「なぎさ、責任とってくれる?」
「えっ?」
硬直したなぎさが立ち止まったのを少し追い越して、ほのかは正面を向いたままで続けた。
「……だからね、ファーストキス奪った責任とって、私と…………なんてねっ」
クルリと振り向いたほのかが、固まってしまったなぎさを見てクスクスと笑う。
「えっ!? ……あ、冗談?」
「うん。冗談だけど……あ、もしかして、本気で責任とってくれちゃう気になった? 嬉しいっ」
ようやくなぎさの表情も緩んで笑みが浮かび始めた頃、日中の眠りより、二人のパートナーが
それぞれ目を覚ました。
「何の話してるメポ?」
「ミポ?」
「ポポー?」
さらには、なぎさの鞄からポルンまでが飛び出してくる。
「こ…こら、あんた達、ポルンまでっ」
「ねえねえ、ほのか、なぎさと一体何を話していたミポ?」
「んーとね……、タキシード着た私を、ウェディングドレス着たなぎさが迎えにきてくれるって話
よ」
「コラー! ほのかっ、あんた、なんてウソついてるのよっ!」
可愛らしく顔を真っ赤に染めたなぎさが、バタバタと両手を振りながら親友のウソを否定する
が、パートナーたちは、そんなもの聞いていない。
「わぁ、ほのかとなぎさが結婚したら、メップルと同じ家で暮らせるミポっ!」
「僕達も一緒に結婚するメポっ! 合同結婚式だメポっ!」
「だーかーらーっ! 人の話聞けぇぇぇっ!」
「……なぎさの赤ちゃん……オギャア、オギャア……」
「ポルンっ!? あんた何を予知してるのっ!?」
家に帰ったときには、精神的にヘトヘトになっていた。晩御飯もいつもの半分しか食べられな
かった。
「あ〜んもう、ほのかってば、ありえな〜い」
ベッドの上で寝返りを打つ。既に午前一時を回ったというのに、今日のあの騒ぎのせいで、
目が冴えてしまって寝付けない。
「う〜〜〜」
ついにはガバッと身を起こし、洗面所へと立つ。
(だいたい、なんでアタシがウェディングドレスなのよ? ほのかのほうがずっと似合うじゃない)
電気もつけぬまま、夜目を利かせて鏡の中の自分の顔を覗き込んだ。
(でもまぁ、ほのかだったら何着ても似合うから、タキシードでもいっか。それにアタシ、ウェディ
ングドレスって、ちょっと憧れてるし……て違うでしょ!)
鏡の中の自分自身にツッコんでから、すごすごと自室へ戻った。力尽きたように、バタンっと
ベッドの上へ転がる。
そのまま一分…二分……五分……
(だあぁぁぁぁぁ!? ほのかの顔ばっかし思い浮かんできて眠れないぃぃぃぃっ!?)
ベッドの上で悶々と転がり始め、ついにはベッドから転落してしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「なぎさ、大丈夫?」
「えっ、ああ…うん、まぁね……」
両目の下にごっそりと隈を作った顔で、力の無い笑みをほのかへと返した。結局、一睡も出
来ないばかりか、ずーっとほのかのことを考えていたせいで、脳が疲れ果てている。
「大丈夫、ほのか…心配しないで」
やがて、幕が上がった。疲れた体を引きずって、なぎさが舞台へと立つ。
始まった劇は問題なく進行し、ついに、なぎさの昨日一日を狂わせたキスシーンへと辿り着い
た。
(はぁ……アタシってば、何ワケわかんないこと考えてたんだろ)
自分の不注意で、ほのかのファーストキスを奪ってしまった罪悪感があったとはいえ、冷静に
なってみれば、昨晩の動揺っぷりは、あまりに不思議だった。
(だいたい、女同士なのに、アタシとほのかが結婚できるワケないじゃん。それなのに、あんな
に悩み込んじゃって)
調子を取り戻し始めたなぎさの表情に、いつもの活き活きとした元気が湧いてきた。
今日は失敗しないでね、と視線で囁いてくるほのかにだけ分かるよう、口元にそっと笑みを浮
かべて応えた。
(まかせてっ!)
もやもやとしていた胸の内が、一晩ぶりにようやく晴れた。観客が見守る中でのキスシーン。
唇同士が小さな間隔を空け、ピタリと止まる。スポットライトの中で、見事なまでのキスシーンが 完成された。
(恋人にはなれないけど……でも、ほのかはアタシにとって一番大切な親友だよねっ!)
自分の答えに大きな安心を覚え、なぎさの意識が緩む。同時に、昨日の夜から張り詰めて、
疲労のピークに達していた脳が一瞬、心地良い睡魔の闇に沈んだ。
(なぎさっ!)
突然、力の抜けてしまったなぎさの体を、慌ててほのかが抱き支えた。しかし、不意をつくよう
に、なぎさの首がカクンッと倒れてくるのは防げなかった。
ちょうど倒れ込む先に、ほのかの唇があった。
ぶつかるように、二人の唇が完全に重なった。
唖然。
なんともいえない空気が観客席を漂った。
キスシーンは、スポットライトの中にくっきりと浮かび上がっていた。
アクシデントとはいえ、舞台劇での生のキス。それを見た女子生徒の一人がすっ…と立ち上
がってパチパチパチ…と拍手を送った。なぎさに心酔するファンなのか、目にはうっすらと失恋 の涙が浮かんでいた。それが伝染したように、各所でまばらな拍手が起こり始めた。
「おめでとうっ、美墨先輩ッ! 幸せになってくださいッ!」
誰かが大きな声で叫んだ。それをきっかけに、次々に女子生徒たちが立ち上がって、大きな
拍手と共に思いの限りを叫び始めた。
「私も…美墨さんのこと大好きだったッ!」「雪城さーんっ、美墨さんのことお願いしまーすッ!」
「二人とも頑張って丈夫な子供産んでーっ!」「ひそかに美墨先輩のこと狙ってたのにーッ!」 「私も…いつか、雪城さんみたいに綺麗な人と結婚するからッ!」「舌入れるの禁止ーッ!」「う そっ、アレって舌入ってるの!?」
女子生徒の悲喜こもごもの叫びが、津波となって舞台に押し寄せた。
「ふん…?」
唇に柔らかい感触がある……。ゆっくり顔を上げると、氷細工のように綺麗な笑顔でほのか
が微笑んでいた。でも、目は全然笑っていなかった。
ふと唇に手を当てて、さー…っと顔から血の気を引かせたなぎさに、ほのかが一言一言を区
切りつつ、奈落のように深く静かな声で告げた。
「責任…ちゃーんと、とってもらうからね、なぎさ」
歓声の鳴り止まぬ観客席に目を向ける。娘の晴れ舞台を見にきたなぎさの両親が、感極ま
って拍手を続けていた。最悪なことに、なぎさが想いを寄せる藤P先輩もいた。彼もまた、心か らの笑顔で拍手を送ってくれた。
「あ…ありえない……」
「ふふ…、逃がさないわよ、なぎさ」
呆然とするなぎさの腕に、するりとほのかが腕を絡めてきた。まるでニシキヘビに腕を搦めと
られたような錯覚を覚えた。
「ねえ…、ほのか……」
「ん?」
「ほのかが……タキシード着るんだっけ?」
祝福の拍手が万雷のように鳴り響く中、静かに幕は下りていった。
(2004/10/24投稿)
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