雲が流れてきて、太陽を隠した。春とはいえ冬の名残がまだ残っており、強く吹く風は少し肌
寒い。
ショートの髪を風に嬲らせるままにして、美墨なぎさは自分の左手をじっと眺めていた。握っ
た拳の薬指の上で、小粒なダイヤを輝かせたエンゲージリング。それは雪城ほのかからの最 後の贈り物。高校生になったばかりの彼女が身につけるには、まだ早い代物だった。
「ほら、なぎさ、ずーっと突っ立ってないで座んなよ。お客もいないんだし……。そうだ、今日は
特別にたこ焼きでも奢ってやろうか?」
タコカフェのビーグルから顔を覗かせたのは、赤いバンダナを頭に巻いて、エプロン姿で小
粋に振舞う女店主、藤田アカネだ。
随分と年の離れた後輩は、全く反応しない。アカネは苦笑しながらタコカフェから出て、「すぐ
出来るからちょっと待ってて」と、なぎさの手を引いてテーブルにつかせようとした。しかし、だら ん…と腕を引かれるに任せ、なぎさはその場から動こうともしない。
「なぎさ…」
ようやく顔を上げた後輩は、迷子のように途方に暮れた目をしていた。
「ねえ、アカネさん、アタシ……どうしてこんなところにいるんだろう? どうしてほのかのそばに
いないんだろう?」
何も言わず目をそらしたアカネは、ポケットの中にあるタバコを取り出した。タバコは好きでな
いので、つい最近まで吸ったこともなかったが、とりあえずタバコの煙を胸いっぱいに吸うこと でやるせない気分を紛らわすことができる……ような気がしていた。
さすがに目の前の未成年者に配慮して、結局は吸いもせずにまたポケットの中へ収めた。そ
れを視線で追いながら、なぎさが沈んだ声で言う。
「アカネさん、アタシにもタバコ一本もらえませんか?」
すぐ目の前で、アカネの手がすっと持ち上がった。ぶん殴られると思って、なぎさは首を縮め
た。だが、頭の上に優しく降りたアカネの手は、なぎさの髪をクシャっ…と力無くかき回しただけ だった。
アカネはタコカフェの看板に描かれた『akane&hikari』の文字を見上げた。
「なぎさは覚えてる? ……ひかりって子のこと」
九条ひかり。クイーンの命としてこの虹の園に降り立ち、しばらくの間、アカネと共に暮らして
いた少女。彼女のもとに集ったハーティエルと共に再びクイーンとして復活を遂げ、光の園へと 回帰したのちは、彼女がこの虹の園に及ぼしていた親和概念の効果も全て消滅してしまった。
すなわち現在、かつてプリキュアだったなぎさとほのか以外に、この虹の園で彼女という存在
を記憶している者はいない。ひかりがあんなに慕っていたアカネさえも例外ではなく。
「アタシさ、このひかりって子のこと、全然覚えてないんだ」
なぎさは本当の事をしゃべるわけにもいかず、口を濁した。
「ひかりは、その……」
「アタシ…どうしても思い出せないんだ、この子の顔も…声も…。この子のこと知ってるはずな
のに……一緒にいたはずなのに……。な、なんかさ、みんなに訊いても誰も覚えてないしさ… …。捜しても捜しても……どんなに捜しても見つからなくて……まるで最初からいなかったみた いに消えちゃって。でも、この子は確かにアタシのそばにいてくれたんだ……」
記憶は消えている。
けれど、心ではしっかりと覚えていた。ひかりと一緒に暮らした日々の温もりを。その感触
が、アカネの中でどこまでも切なく疼いていた。
なぎさの頭に置かれた手が震えた。
「ねえ、なぎさ、アタシ……なんでこんなところで一人ぼっちになってるんだろ? なんでひかり
がそばにいてくれないんだろ?」
まるで先ほどのなぎさを真似るように、初めてなぎさが目にするアカネの弱々しい姿。アカネ
の目じりから溢れた涙が、濡れた軌跡を頬に刻んでいた。
「…う、うぅっ…うっ」
魂を半分持っていかれたような孤独の痛みに耐え切れず、アカネが哀しい嗚咽をこぼした。
「ひかり…ひかり……ひかりぃ……」
ボロボロと頬を伝い落ちる涙と共に、何度もその名をこぼす。名をこぼした数だけ、心に痛み
が走った。それでもアカネはひかりの名を声に出し続ける。心が痛みでズタズタに切り裂かれ ても、「ひかり」という名前だけは、自分の中に留めておきたかった。
たとえ、このまま痛みに耐えきれず死んでしまっても、ひかりが自分のそばに居てくれたこと
を忘れて生きるよりはマシ。せめて生きている間は、この「ひかり」という名前だけでも抱き締め ていた。そう願うアカネの両肩に…………そっと触れる温かさ。
一瞬なぎさかと思ったが、すぐに違うと気付いた。
この温もりは、心が覚えている。いつだって、この温もりを感じていた。この温もりだけは忘れ
られない。
ひかりという名前と、その温もりとが重なった。
雲の切れ間から覗く太陽。暖かな光が天と地を繋いで、アカネの周りを包み込む。
(アカネさん、私……ずっとアカネさんのそばにいます……)
二人の耳には聞こえず、二人の心にだけ響く声。
ふと顔を上げたアカネの視線の先で、光がさらに雲を押しのけた。流れる涙を拭うように、光
が優しく頬を撫でてくる。
「……そうだよな」
アカネの目から涙が止まる。鼻を大きくすすって笑みを作った。
「や…やっべぇ、なんかすっごいカッコ悪いところ見られちゃったなぁ」
「アタシも……ひかりの前で、カッコ悪い」
まぶしい太陽を真っ直ぐに見上げて、なぎさも立ち直った。
(そうだよね。アタシたちだって、アカネさんとひかりに負けないくらいずっと一緒なんだよね)
左手の指輪に向かって謝った。
(ごめんね、ほのか。アタシもいつまでもクヨクヨしてないで頑張って進まなきゃ。自分の足でち
ゃんと歩いていかなきゃ。じゃないと、ほのかに会わす顔がなくなっちゃう)
アカネと顔を見合わせて頷きあう。二人の顔には、春の季節に相応しい爽やかな微笑み。
アカネがポケットの中に入れてあったタバコの箱を握り潰した。
「なぁ、なぎさ。どーせ今日はヒマなんだろ? たこ焼きの作り方でも教えてやるよ」
なぎさが彼女本来の元気な声で返事をした。
「はいっ!」
力強くタコカフェへと一歩を踏み出した、そんななぎさの左手の指輪に秘められた小さな思い
出。
パリで両親と暮らすことになったほのかとの別れを惜しんで、いつまでも彼女の家から帰ろう
としなかった日のこと。
澄んだ冬の夜空を見上げて、なぎさは縁側で膝を抱えるようにして座っていた。隣では、ほの
かがゆったりと腰掛けながら、なぎさの視線を追って、星をじっと眺めていた。
なぎさが視線を横に向ける。才色兼備を地でいく親友、その顔をそっと見つめる。ようやく視
線に気付いたほのかが照れたように笑った。
「やだ、なぎさ…、いつから見てたの?」
こんなにも近くで笑ってくれるほのかを、心からいとおしく思う。
「アタシはいつだって、ほのかのことを見てたよ」
「私も。いつもなぎさを見て、いつもなぎさのことばかり考えてた」
なぎさがイタズラっぽく目を細めた。
「…やっぱりほのかがパリへ行くの、反対しちゃおっかな」
ほのかの困った顔が見たくて、ついそんなことを言ってしまう。
「もうっ」
なぎさの意図を察して、苦笑するほのか。
ほのかが座ったままでなぎさに近寄った。二人の肩が触れて、なおもカラダ同士の距離は縮
まり続ける。
「そんなこと言うなぎさの唇には、お仕置き…」
声と共に、ほのかの芳しい息が頬に触れた。ドキッと心臓が飛び跳ねて、なぎさの体が硬直
する。何となく、ほのかの唇が徐々に近づいてきているような気がした。
(えっ、ちょっとちょっとほのか何する気……お仕置きって何ッ?)
体は石化状態で動かないが、思考だけはいつもより倍以上早く回転していた。時間の流れが
緩慢に感じられる中、唇と唇の間が着実に狭まってきている。
(ちょっとちょっとほのかほのかほのかぁぁッ!?)
「ほのか」
唐突に廊下の奥からおっとりと響いた声に、ほのかが大いに慌てた。縁側からずり落ちそう
になりつつ急いでなぎさから離れ、姿勢を正す。隣で固まったままのなぎさを気にかける余裕も なかった。
「な、なあに、おばあちゃま?」
和服姿の雪城さなえがいつも同様落ち着いた雰囲気で、しずしずと廊下を渡ってくる。
「部屋を整理していたら、こんなものを見つけてしまいましてねぇ」
さなえが手の平に乗せて差し出してきたのは、婚約指輪の箱。柔和な笑みを湛えた表情で、
さなえが思い出の品を手に続けた。
「私はもう指輪を身につけるような歳じゃありませんし…。ほのかが貰ってくれるかしら」
「えっ、でも、これっておばあちゃまの婚約指輪でしょ? そんな大事なものを……」
「いいんですよ。私の形見だとでも思ってちょうだい。私は明日にでもお迎えが来たって不思議
じゃありませんからね」
「そんなおばあちゃまっ!」
「冗談ですよ」
心臓に悪い冗談をさらりと流して、さなえは廊下の奥へ去っていった。
ほのかの両手には、婚約指輪の箱が残っていた。石化の解けたなぎさと顔を見合わせたあ
と、そっと蓋を開けてみた。
「うわぁ、綺麗……」
ほのかの横から覗き込んできたなぎさが素直に感想を洩らした。
プラチナのリングの上に、慎ましげなメレダイヤ。上品な輝きが、二人の少女を魅了する。
「ねえねえ、ほのか、つけてみせてよっ」
はしゃぐなぎさにせがまれて、ほのかがリングに薬指を通した。気品に溢れた輝きが、ほの
かの細指に彩りを添える。
「どう、なぎさ」
ダイヤが見えるように左手を顔の横にかざして、ほのかがにっこりと笑う。なぎさはダイヤの
煌めき以上に、急に大人っぽくなった感じのほのかの笑顔に見蕩れてしまって言葉が出ない。
「…なぎさもつけてみたい?」
「えっ? あ、えっと……うん」
何だか心を奪われてしまったみたいにポーっとしているなぎさの様子が可笑しくて、ほのかが
頬をほころばせた。
ほのかが自分の指からリングを抜いて、なぎさの左手を取った。ゆっくりと薬指を通っていく
婚約指輪。サイズ的にも問題なくぴったりと収まった指輪を見て、ほのかが満足そうに頷く。
「……よかった。ちょうどいい感じみたいね」
そう言いながら、ほのかがなぎさの指を小指から順に折り曲げていく。コブシの形に仕立てた
なぎさの手を、ほのかが手の平をかぶせて包み込む。
「なぎさ……この指輪、貰ってくれる?」
「はっ…?」
初めて嵌める指輪の感慨に浸っていたなぎさが、いきなり現実に引き戻された。目を白黒さ
せながら、慌てて首を横に振った。
「ちょ…ちょっと何言ってるよ。ダメだよ。だって、これってほのかがおばあちゃんから貰った指
輪じゃない。アタシが貰っていいわけないでしょ」
それを押さえ込むように、穏やかだが強く意志が込められたほのかの声。
「だったら預かってて。私がパリから帰ってくるまで」
夜の静けさよりも深い沈黙が二人の間を漂った。
無音の中で、なぎさが問う。
ねぇ、いつ……帰ってくるの?
声には出さず、唇の動きだけでほのかに尋ねてみた。
分からない……。
ほのかは首を横に振ることでそう答えた。
なぎさの洩らした小さな溜め息が、沈黙を吹き払った。
「アタシ、本当はね……ほのかと離れるのすごくツライんだ」
ほのかの眼差しが一瞬大きく揺れた。それを受け止めたのは、涙をこらえたなぎさの瞳。
「でも、ほのかがお父さんやお母さんと一緒に暮らしたいって思う気持ち、アタシにも分かるか
ら……行かないでなんて…言えなかった」
パリへ行く事を決断したほのかを支えてくれたなぎさの友情。そして今、ほのかと離れたくな
いと口にしたなぎさの感情。どちらもほのかにとって、かけがえの無い大切なもの。
嗚咽をこらえて震えるなぎさを抱き締めて、「必ず帰ってくるから」と一言だけささやいた。
密着した体で温もりを分かち合う。
冬の夜がどんなに冷たくとも、決して奪うことの出来ない二人の温もり。
それは温かな二人だけの絆。
運命の赤い糸のように、ずっとなぎさとほのかの心を繋いできたもの。
(なぎさ。私たち離れることになっても、別れるわけじゃないから……。そうよ、私たちはいつま
でもずっと一緒)
「なぎさ…」
お互いを結び付ける言葉の中で、ほのかは自分が識る最も強い言葉を口にした。
「愛してる」
はっきりと聞こえたのだろう。なぎさの震えが止まった。ほのかの肩に顔をうずめたまま、なぎ
さがちょっと照れたように顔を赤らめた。そして、眠るように力を抜いて、ほのかの抱擁の中へ とカラダを捧げた。
恋人同士以上に固くひとつになりながら、ほのかは愛しげな視線をなぎさへと注いだ。高鳴る
気持ちがほのかの口からメロディを紡ぎだす。
「だって、やってらんないじゃん、ファイターより乙女チックに……」
ほのかの歌声に、なぎさが瞑りかけていた目を薄く開いた。
あやすようにゆっくりとなぎさの背を叩くリズムに合わせて、ほのかが次の歌詞を夜風に乗せ
た。
「ゲッチューラヴラヴモードじゃん、身も心もスゥイーツに、とけてみたいもん……」
それは二年の時、なぎさたちの桜組が合唱コンクールで歌った曲だった。
たどたどしく記憶を辿って、なぎさが次の歌詞を拾った。
「チョコパフェとか、イケメンとか、マジに夢中になれる年頃なの〜…、今日も告白したかったよ
…」
冬空に向かって微笑んでほのかが続けた。
「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないこと、あるんじゃない、の…
…」
二人で交互に歌詞を紡いで、穏やかなテンポで歌いあう。
曲が終わる頃には、二人の歌声は同一の歌詞を共になぞって、優しいハーモニーを奏でて
いた。
歌声だけでなく、呼吸も、鼓動のリズムさえも溶け合うように重なっていた。
(大丈夫、大丈夫だから。だって、こんなにも私たちはひとつでいられるもの……)
もうすぐ世界で一番大切な人と離れ離れになるというのに、ほのかはその日最後まで微笑み
を崩さなかった。
なぎさ、大丈夫。どんなに離れたって、私たちの魂(ココロ)はずっと繋がってるから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
高校卒業後、なぎさの日々は駆け足のように慌しく過ぎていった。数年の月日など、あっとい
う間に流れ去ってしまう。
「アンタにも今まで随分世話になったねぇ」
長年愛用したビーグルのボディに手を這わせてアカネが呟いた。見上げた看板には『akane
&hikari&nagisa』。
「アカネさーんっ!」
アカネにとって2代目のパートナーが騒がしく出勤してきた。物凄い勢いで走ってくる。そし
て、なぜか新聞の束を両手いっぱいに抱えている……。
なぎさは「号外っ! 号外−っ!」と号外の意味も知らずに大声で興奮しながら、その新聞の
束をドサッ!とアカネへと手渡した。予想以上にずっしりとくる重みに、アカネは思わず落として しまいそうになった。
「な、何だよ、これ…」
「アカネさんっ、見てください! ジャーンっ!」
アカネが抱える新聞の束から一部とって、目の前に広げて見せた。第一面には『雪城ほのか
ノーベル化学賞受賞』と大きな見出しが。得意満面のなぎさに向かって、アカネは溜め息をつ いてみせた。
「あのなぁ、アタシだって今日の朝刊でその記事は読んだっつーの。ていうかさぁ、この新聞の
量、なに? 全部買い占めてきたわけ?」
「だって、ほのかが新聞に出て嬉しかったんだもんっ」
「ハァ…。アンタもほのか見習ってノーベル賞狙いな、ノーベル料理賞」
「えっ、あるんですか、そんなの?」
「あるワケないだろ。それより今日からは店の方に出るようにって言っといたじゃない…」
とりあえず、この嬉びを一刻も早くアカネに伝えたかったのだろう。成人しても変わらぬなぎさ
の子供っぽい部分に、アカネは暖かく微笑した。
「よっこらせっ」と重い新聞の束を置きにいったん家へ戻ろうとして、二三歩進んだところで振り
返ってなぎさへと声をかける。
「あ、そうだ。アタシのポケットに鍵入ってるから取ってくんない? 先に行って店のシャッター開
けといてよ」
なぎさが嬉しそうに笑いながら真新しい鍵を手に取る。
もうすぐなぎさの人生にとって新しい季節がくるのを知っているから、心が躍りだしそうなほど
嬉しくって仕方が無い。それは春よりもポカポカしてて、でも夏ほどには暑くなく、秋のようにど こか優しげで、そして冬なんかぶっ飛ばすほどに暖かく。
予感ではなく確信。繋がった心がなぎさに教えてくれる。
連絡はまだ来ていないが、もうすぐ彼女が日本に、そしてなぎさのいるこの街に帰ってくる。
「ほのかっ」
声に出して、彼女の名を呼んだ。左手の指輪がキラリと陽光を反射して輝いた。
ほのかへの想いが全身の細胞ひとつひとつに活力を与え、なぎさは飛ぶように走った。目指
すは、アカネとひかりが志し、なぎさも加わって完成させた「夢の城」
お姫様を迎える準備はとっくに出来ていた。
ほのか、楽しみにしてて! 世界で一番美味しいたこ焼き、食べさせてあげるからねっ!
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