origin


 眼差しの先には、青く、高く澄んだ空があった。しかし、藤田アカネには空を見上げていると
いう感覚はない。公園のベンチに腰掛けて、買ってきた菓子パンをかじりながら、ただ上を向
いているだけだ。
「さーて、どーすっかねぇ…」
 心の中で呟いたつもりだった言葉が、自分の鼓膜に響いたことに驚く。まわりに見渡して誰も
いない事に安堵したのち、小さく苦笑した。こういう弱い部分を他人に見られるのは、プライド
が許さないタチの人間だ。
 ふと足元を見ると、ハトがじっとこちらを見上げていた。気まぐれにパンくずを投げてくれるの
を期待しているらしい。
「いいよ。あんたも食べな…」
 18歳の女子高生には似つかわしくない、たそがれた笑みを浮かべ、パンを小さく千切って投
げてやる。2度3度と与えている内に、周囲に居たハトも続々とアカネの足元に集まってきた。
何十というハトの眼差しが、揃ってアカネのパンを注視する。 
「まいったなぁ…」
 また、アカネが苦笑した。手元のパンは、どんどんと小さくなっていく。
 言葉の通じないハトたちに向かって、胸の奥に仕舞っておいた寂しげな独り言をこぼした。
「…たぶん、燃え尽きちゃったんだろうなぁ、アタシは」
 キャプテンを務めていたラクロス部も、無事リーグ優勝を果たし、後任への引継ぎも終えた。
中等部・高等部共に、青春をラクロスに捧げ、それ一筋に打ち込んできた彼女にとって、一気
に何もかもが終わってしまった感じだった。
「この後どうしたらいいか、全然分からなくってさぁ。ここであんたらのボスになって、毎日パンを
やるワケにもいかないし…」
 パンを与える手は休めず、アカネの表情が迷いに沈む。
 その時、
「とりゃぁぁーーー」
 公園に響いてきたのは、可愛らしい雄叫び。そちらの方に目を向けると、子供用自転車に乗
った4、5歳くらいの幼女が、後輪の両サイドに付けた補助輪をガラガラ鳴らしながら、アカネ
目掛けて突っ込んでこようとしていた。…否、その子の狙いは、アカネの足元に群がったハトた
ちだ。
「ちょ…ちょっと……ッ!」
 制止の言葉を途中で飲み込む。もはや幼女は目前。トップスピードを維持したまま一直線に
特攻を仕掛けてきた。アカネは、慌てて手元のパンを両手でかばって目を瞑る。次の瞬間、ハ
トの群れが緊急離脱を行う。アカネの鼓膜を凄まじい羽ばたきの音が打ち、体がビクッと震え
た。
 ……一瞬で嵐は通り過ぎた。
 アカネがこわごわと目を開けると、突っ込んできた幼女がきょとんとした顔で自転車にまたが
っていた。だが、アカネと目が合うや否や、明るい茶色の髪の下を笑顔で輝かせ、両手でVサ
インを突き出してきた。
「ハトやっつけたー!」
 どうしていいか分からず、仕方なくアカネも片手でVサインを返した。幼女は満足したらしく去
っていった。
「はぁ…」
 一息ついて、別のベンチへと移った。
 再び足元にパンくずを撒いて、ハトが来るのを気長に待った。しばらくは警戒して近寄ってこ
なかったハトたちも、徐々にそばに来てパンくずを食べ始めた。
「あんたらも災難だったねぇ」
 パンを小さく千切っているアカネの耳に、またガラガラ…という補助輪の音が響いた。それだ
けで、アカネの表情がビクッ!と引きつった。
 やはりその音の主は、さっきの茶髪の少女だ。今度はハトに突っ込んでくる様子はなく、かわ
りにハトたちと並んで、アカネの方をじーっと見上げてきた。
(な…なに、この子…?)
 アカネが幼女の視線の先をたどると、手の中にある菓子パンをじっと見つめているようだっ
た。
「え…えっと、お腹すいてんの?」
 茶髪の幼女は素直に頷いた。自転車から降りてきたその子に、もう一握りほどしかないそれ
を渡すと、笑顔で「いただきます!」と喜んで頬張った。
「ごちそうさまでした!」
「あ…おそまつさまでした…」
 茶髪の幼女に気付かれないように、そっと溜め息をついた。
(今日はもう帰ろ……)
 何となく気だるい疲労に瞑ってしまった目を開くと、そこにはもう一人、幼女が増えていた。何
かを予感して、アカネの顔が再び引きつる。
 今度登場したのは、黒いつややかな髪を伸ばした幼女。年齢は茶髪の幼女と同じくらいか。
脇に分厚い本を挟んで、何故だか知らないが、聴診器を身に付けている。
 黒髪の幼女は、すでに二股のパイプ(耳管)を耳に装着し、チューブの先のチェストピース(円
盤状の集音部)を構えて、そろりそろりと油断なくアカネの方へにじり寄ってきた。……否、また
しても狙われているのはハトだ。
 もうどうにでもして……といった感じでアカネが両目を閉じた。しばらくして、ハトの群れが緊急
離脱を行う羽ばたきの音。
 アカネが溜め息をついた。今日は、やたらと溜め息をつくのが多い日だ。
 このまま目を瞑っていた方が楽かもしれないと思いつつ、嫌々ながら目を開くアカネ。目の前
には診察する対象を失って呆然としている黒髪の幼女。そして、「またハトやっつけたー!」と
両手でVサインをする茶髪の幼女。
 ほっといて帰ろうと思い、ベンチから立ち上がりかけたアカネだが、黒髪の幼女の大きな眼
(まなこ)にみるみる涙が溜まっていくのを見て、慌ててベンチに座り直した。そして、わざとらし
く咳をゴホゴホとして、
「あ…あれ〜、なんか風邪引いちゃったみたいだな〜」
 黒髪の幼女の目が輝く。
「もしよろしければ、わたしがしんさつしましょうか?」
 アカネの座っているベンチは、即席の診察室となった。
「では、しんさつをするので、ふくをぬいでください」
「え…えっと、服は着たままでお願いします、先生……」
 アカネの申し入れは許可された。ベンチの上に正座した黒髪の幼女が、ぺたっと聴診器を服
の上から腹部に当てる。
「おおっ!」
 茶髪の幼女が、胸の前で両手を拳の形に握り締め、身を乗り出してエキサイトする。
 黒髪の幼女は静かに診察を続ける。次は胸。その次は喉と、順々に上のほうへ向かって聴
診器を当てていく。あご、鼻を通り過ぎて、最後はおでこ。ぺたっと聴診器を当てながら、集中
して耳を澄ましている。「ふむふむ…」と何やら納得して頷いてから、聴診器が外された。
 そして、黒髪の幼女が脇に挟んでいた本を広げ、書かれている内容と診察結果を照合する。
「どうやら、ふじのやまいのようですね。ておくれです」
 アタシの頭がですかっ!?と訊きかけて、言葉を飲み込むアカネ。
「では、おちゅうしゃをするので、おててをだしてください」
 どうやら不治の病でも治療をするらしい。黒髪の幼女がポケットから取り出したのは、針の付
いていないオモチャの注射器。
「はい」
 素直に袖を捲くっていくアカネ。だが、注射で痛い経験をしたことがあるのか、それを見てい
た茶髪の幼女が、火のついたような大声で泣き出した。
「ちょっとちょっとっ……ほ、ほら、注射なんてしないから…うん、大丈夫だからさ、ねっ、ね
っ?」
 慌ててアカネがあやしにかかるが、注射への恐怖はそう簡単には拭い去れないようだった。
さらには、その大きな泣き声に驚いたらしく、黒髪の幼女までもがわんわんと泣き始めた。
「えっ…いや、泣かないでよ……ほら、大丈夫だから、大丈夫だから……」
 茶髪の幼女と黒髪の幼女とを行き来しながら、だんだんとパニックになってきたアカネは、二
人に交じって泣きたい気分になってきた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ようやく一人になれて、アカネは深い溜め息をついた。
「はぁぁ〜〜、疲れた……」
 空を見ると、すっかり色が変わってしまっていた。
 結局あの後は、泣きやまない二人を食べ物で懐柔することにしたのだった。商店街へ連れて
行き、たまたま目にとまった店でたこ焼きを奢ってやって、ようやく泣き止んでもらえた。
 眼差しの先には、夕焼け色に染まった空。その空を真っ直ぐに見上げながら、アカネは口元
に微笑みを浮かべた。

「どう? たこ焼き美味しい?」
 アカネがそう訊くと、二人揃って「うんっ!」と大きく頷いた。涙の跡もすっかり晴れて、明るく
輝く二つの笑顔がアカネへ向けられた。
 べったりと口元にソースをつけながら、たこ焼きを頬張る二人の幼女。アツアツの美味しさを
噛み締めて、表情に嬉しさを溢れさせている。
 そんな光景が、アカネの胸をほんの少し温かくした。それは、「幸せ」という感情。
「そーだっ、これ、おいしいからおねえちゃんもたべて!」
「あーんしてくださいっ」
 同時に二人の幼女が、アカネの口の前にたこ焼きを突きつけてきた。不意だったので一瞬た
じろぐも、アカネは「ありがと」と礼を言って、幼女たちの好意を受け取った。
「おいしい?」
 茶髪の幼女が、アカネの顔を覗き込むように訊ねてくる。
 アカネは二つのたこ焼きを口の中に収めたまま、大きく頷いた。
「…………」
 黒髪の幼女が、無言で耳に聴診器を装着した。多分、アカネがたこ焼きを喉に詰まらせた場
合、あれで診察して助けてくれるつもりなのだろう。
(たこ焼きって……こんなに美味しかったっけ?)
 普通に食べ慣れているたこ焼きなのに、飲み下してしまうのが勿体無いほどだ。
(……きっと、この子たちの笑顔のおかげなんだろうねぇ)
 アカネが両手を伸ばして、幼女たちの頭を優しく撫でてやった。何となく褒められたのを察し
て、二人の幼女が無垢な笑顔に嬉びを載せて返してきた。

 三人でたこ焼きを食べたあと、アカネは責任持って、二人の幼女をそれぞれの家まで送り届
けた。そのため、今はもう夕暮れだ。
 随分と不慣れなペースに引っ掻き回されて、体がクタクタになっている。しかし、アカネの胸に
は、ラクロスでいい試合をした後のような充足感があった。
「ホント、いい一日だったよ…」
 幼女たちの顔を思い出しながら、感謝の言葉を口にした。
(笑顔に……たこ焼きか……)
 賑やかしさから解放されて、今は少しだけ寂しい。その想いに負けて、アカネは来た道を振り
返ってみた。もしかしたら、あの二人の幼女が自分を追いかけてきてくれているかもしれない、
などと思ってみたりもしたが、当然そんなはずもなく……。
(いいさ) 
 後ろ髪引かれる気持ちを吹っ切る。
(前に進んでりゃ、またあんな笑顔に出会えるだろうさ)
 まだ、自分がこれからどう進むかは分かっていない。それでも、自分が一番大切にしたいモノ
は分かった。
 アカネ自身気付いていないが、今の彼女が浮かべている笑みは、幼女たちが浮かべていた
のと同じぐらいに、曇りも迷いも無かった。
「さ、とりあえず帰るか!」
 ラクロスで鍛えた脚が、アスファルトを蹴る。
 胸の収めた二人の笑顔。それがアカネの脚に加速をかけた。
 
 夕暮れを突っ切って、明日へ。


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