心に降る闇色の雨06
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「何か用なの?」
その女性とすれ違った直後、振り向くことなく、霧生満が静かな口調で詰問した。女性も一瞬
だけ足を止めた。
満には見えなかったが、女性が微かに苦々しい笑みを口元に刻んだ。
女性はすぐに表情を元に戻して歩き出した。満も、下校時の生徒たちの流れに合わせて歩
き続ける。何事も無く、二人の距離が離れていく。
それからしばらしくて、隣の市で連続殺人事件が起こった。対象は、中学生から高校生の女
子。犠牲者の数は、現在に到るまで八名。
(全ての始まりは、きっとあの瞬間。だから、わたしがあの時に殺しておけば、誰も死なずに済
んだ)
いまだに彼女が犯人だという確証は無い。しかし、それでも彼女が犯人だと直感する。
あの時、すれ違う刹那、一度だけ二人の視線が交錯した。それは瞬きするよりも短い時間。
女性が瞳の奥に潜ませた透明無色の悪意は、気配を完璧に断ち、満を見事やり過ごしたかに
みえた。
ただ、まだ日の射す青空に、うっすらと白ずんだ月が浮かんでいた。ほんのわずかばかり通
常よりも活性化された感覚が、満の無意識にとても小さな警戒をもたらした。
その時は、本当にそれだけで、満に未来の惨劇を予想できるはずもなく……。
(でも、全てわたしのせい。わたしが…………みすみす見逃してしまったから…………)
満が全身に月の光を浴びながら、夜空高くから夕凪の街を俯瞰する。
罪の意識が、心に秘めた殺意を鋭く研いでいく。こちらを見上げてくる視線には、とっくに気
が付いていた。
街から少し外れて立つビルの屋上にて、それは待っていた。市街の光でけぶった薄闇の夜、
獲物を狩る側だったはずの者は、今は警察に狩られる立場へと変じていた。もはや追い詰め
られつつある警戒網の中で、最後の遊戯を愉しもうとしている。
「あなたが厄介そうだったから隣の市で遊ぶことにしたのだけれど……あなたは私と遊びたか
ったみたいね」
殺人者である女性は、四方を囲む柵に指を這わせながら、屋上をゆっくりと歩き続ける。頭
上には月、そして、静かに降下してくる少女。
降り注ぐ月光よりも静謐に、満が屋上へと降り立った。そんな彼女を歓迎するみたいに、女
性が薄っすらと微笑を口元に広げて言った。
「警察に捕まる前にもう一度逢えて良かったわ。えーっと……天使さん?」
空を飛んできた満をどう呼んでいいのか、戸惑っている様子。なので、満は簡潔に自己の役
割を紹介した。
「死神よ」
紅い瞳が冷たい殺意を帯びる。それに呼応するかのように、女性も一連の殺害に使用した
凶器であるトレンチナイフを左手で抜いた。
「ふふっ」
女性が笑みで緩んだ唇から可愛らしく舌を出し、右手の人差し指の腹を一舐めした。そして、
その湿った指先でナイフの腹を、柄の方から尖端へと向けて、サーッとなぞった。唾液の筋
が、なまめかしく鋼を濡らす。
「ねえ死神さん、人間みたいに温かくてやわらかいものを見ると、冷たくて硬い鉄で犯したくなら
ない?」
言い終えた刹那、女性が前傾姿勢で飛びかってきた。風を斬るようなスピードで左手のナイ
フがシャープな弧を描き、満の首筋を強襲してくる。それに対して、満は避ける素振りさえ見せ
ない。ただ心の中で憮然と一言を吐き捨てたのみ。
(…くだらない)
ひどくあっさりと、満が女性の左腕を掴んで攻撃を阻止した。しかし、女性が手首のスナップ
だけでナイフを放り、右手へと鮮やかにスイッチする。
ナイフを掴んだ右手が、満の胴体目掛けて跳ね上がった。次の瞬間、刃に肉を裂く感触が伝
わる。ポタリ、ポタリ、と血が落ちて、屋上を赤い点で濡らしていく。
静かに、雨を降らせた。血の色の雨。その色は心にぐっしょりと染み込んで、紅い皹(ヒビ)を
作る。その皹の奥に覗くのは、底知れぬ闇の奈落。
女性の殺意は、満には届かない。鋼の刃を、満の左手が握り締めて止めていた。あまりにも
握る力が強すぎて、刃が深く手を斬っている。だが、その痛みすらも、満には届かない。
暗い瞳で、足元を紅く染めていく血滴の雨を見つめる。
(あなたを塵に還して、わたしは堕ちる)
そっとまぶたを下ろし、滅びの力を右掌に収束させる。紅い輝きに女性が息を呑む気配。目
の前に突きつけられた圧倒的な破壊の光が、女性の心身をすくませた。そして……。
「―― 早く行きなさい」
満が険しい表情で満がまぶたを上げた。ナイフを女性の手から引き抜いて、屋上の隅に放
る。満の右手に集まっていた滅びの燐光が、儚げに煌きながら散っていった。
「もう二度と誰も殺さないって誓って……わたしの目の前から消えて」
「無駄よ。その人はもう逃げられない」
満でもなく、殺人者である女性でもなく、冷たく澄んだ声が屋上に流れた。
満と同じ、ダークフォールの葬送衣に身を包んだ少女。長い髪が夜陰の風に吹かれて、たな
びいていた。
「そう…。もう警察来ちゃったのね」
柵の外にチラリと視線をやって、女性が他人事のように肩をすくめた。
「ねえ、死神さん。最後にひとつだけ聞かせてくれないかしら?」
「なに?」
「なぜ、わたしを殺すのをやめたの?」
満が月を仰いだ。綺麗な月だ、と思う。やがて顔を戻して、女性へ射抜かんばかりの激しい
視線を送った。だが、それとは対照的に、口調はひどく静かだった。
「たくさんの命を奪ったあなたを、わたしは絶対に赦(ゆる)せない。けど、あなたが死ぬのも…
…やっぱり赦せなかった」
その言葉を聞いて、人殺しの女性が、自分の胸に先刻までナイフを握っていた手を当てた。
手の平に、命の脈打つ鼓動が伝わってくる。
満は、それの大切さを知っているからこそ守り抜きたかった。
女性は、それの大切さを知っているからこそ穢(けが)したかった。
「つまり、私には救いが無いってことね……」
自嘲の笑みと共に、諦観の呟きをこぼした。それから、今度は暖かい笑みを口元に浮かべ
てささやくような声で言った。
「……まあ、どっかの死神さんは、こんな私を最後には救おうとしてくれたけどね」
満の左手からは、点々と血滴の雨が降り続けていた。痛みは、いまだ満には届かない。彼女
の心を占めているのは、鉛のように重い悲しみだった。
「警察に逮捕されたら、あなた、死刑になるんでしょ?」
涙はこぼさなかったけれど、満の表情が悲痛に歪んだ。
月の光の中、女性は満に微笑みかけた。そして、薫のほうを向いて、短く頼む。
「そろそろ警察が上がってくるから…」
「分かった」
薫も短い返答を返し、優しく満の肩を抱き寄せた。そして、浮遊し、満を連れて空へと上がっ
ていく。まるで、天の御使いが星空へと帰っていくような幻想的な光景。
女性は、二人がどんどんと高度を上げて、その姿が小さくなるまで見送ってから、そっと目を
閉じて呟いた。
「今夜は、月がとても綺麗よね」
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家には帰らず、二人は昔の居場所であるひょうたん岩に戻ってきた。
満は何もしゃべらない。薫は、ただ夜空を見上げていた。
こんなにも月が綺麗なのに。こんなにも星が輝いているのに。そばにいる少女の心は、悲し
みの雲で厚く覆われて、一滴の光すら届かない。
「満、そろそろ傷の手当てを…」
「いらない」
冷めた声で、満が断った。全てを拒絶するみたいに、孤独な声。だからこそ、薫はそんな彼
女を後ろから強引に抱き締めた。満のほっそりとしたカラダが軋まんばかりに……その痛み
は、どんな慰めの言葉よりも優しかった。
心に、雨が降る。悲しみの雲が溶け、涙のような雨になって心から流れ落ちていく。
満がまぶたを下ろして、視界を闇に閉ざした。暗くて、何も見えない懐かしい世界で、薫の存
在だけがはっきりと感じられる。
この闇色の雨が止んだら、薫に笑顔を見せてあげよう。この血肉に伝わる温もりと優しさと痛
み、全部笑顔に昇華して、あなたに返そう。
たおやかな花のように、薫の腕の内に身体を委ねる。
「薫、あとでまたキスしてくれる?」
「いくらでもしてあげるわ」
月明かりの下で、紅と蒼の花が重なり合う。穏やかに海風が吹いて、満と薫の髪をそよがせ
る。今日は悲しい日だったけれど、その中に見つけた小さな幸せを、二人はとても大切に愛お
しんだ。
(END)
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